ドクター森本の痛みクリニック

Dr. Morimoto’s pain clinic ドクター森本の痛みクリニック

72 幻肢痛

「痛みの記憶」が完成する前に治療

「鯨の骨で作った義足ではなく、白鯨にもがれ、無くなった足が痛むのだ。この痛みは誰にも分らぬ。誰にも治せぬ」。順天堂大学麻酔科・ペインクリニックの宮崎東洋教授は、その編著書『ペインクリニック―痛みの理解と治療』(克誠堂出版)のなかで、このメルヴィルの『白鯨』の一節を引用して、痛みの複雑さについて述べられている。

捕鯨船の水夫だったメルヴィルはその体験を元に、一八五一年、『白鯨』を発表した。主人公の隻脚(せっきゃく)の船長エイハブは執拗に白鯨を追い続けるが、狂気ともいえる執念が何故彼の心に宿ったのかを端的に表している一節である。

エイハブ船長は無くなった足の痛みに耐えながら、大海原へと船を進めたわけであるが、この痛みこそが「幻肢痛」である。幻肢痛とは、失った体の一部分があたかも存在するかのような幻肢覚とともに痛みを感じる状態を指す。この痛みは四肢だけではなく、乳がんで失った乳房、鼻、肛門、ペニスさらには歯などにも生じる。

『白鯨』の二十年後、一八七一年には、米国の外科医ミッチェルが、初めてこの幻肢痛との診断名を用いた。幻肢痛の発症早期には、帯状疱疹(ほうしん)後の神経痛と同じ仕組みによって痛みを生じるが、さらに痛みが長期に及ぶと、脳が痛みを記憶する状態を作り上げてしまうのである。

その発生頻度に関しては、すでに、十六世紀にフランス軍の兵士を対象とした研究が行われている。なお、最近の大規模な調査では、四肢の切断を受けた二万九千人のうち二千人が幻肢痛を訴えたとある。加えて、切断手術を受けるまでの間に強い痛みを感じていた方が、幻肢痛を生じやすい。

痛みの記憶が完成する以前に、治療を開始すべきである。私どもの施設では、持続硬膜外ブロック、経皮的埋め込み脊髄電気刺激療法により対処しているが、発症早期であれば良い治療効果を得ることが可能である。約百五十年前にこれらの治療法が用いられていたならば、エイハブ船長が白鯨を追い続けることはなかったのかもしれない。

(森本昌宏=近畿大麻酔科講師・祐斎堂森本クリニック医師)

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